MONTAGE

“montage :モンタージュ”

複数の視点の異なる断片をつなぎ合わせ ひとつの連続したシーンを作り、そこに1つの新しい意味を示す映画の技法のことをいう。
“montage”は作家の故 永井宏さんに「文章を短くてもよいから綴ったら良いよ」と一言もらったことがきっかけで生まれました。
時々、空から言葉が降ってくるタイミングで更新中。

" it never comes again "

大粒のスコールのような雨の降った日の晩の家路へ向かう途中の光景。
とてつもないスピードで道路をぶっ飛ばす1台の車。
その後をけたたましいサイレンを鳴らしながら追いかけるパトカー。
あの車がもしかしたら私に向かって突っ込んできて、
突然用意の出来ていない「死」が訪れるってこともないわけでもないのかもしれない。。
なんてもうひとつの瞬間の世界をとっさに想像した。
「生きていること」が当たり前なのならば、「死ぬこと」も当たり前になってくるのだ。
当たり前の「死」という概念は私の普段の思考の中にはなかった。
あの時の誰か。あの時のどこか。あの時のそれ。
同じ人、同じ場所、同じものは二度と帰ってこない。
魂は不変であっても,魂が経験する一瞬一瞬は常に変わってゆく。
自分がどこに向かって、誰と言葉を交わし、心を通わせ、何を食べて、何を着て、何を大事にして、どんな風に生きるのか。
毎瞬の行き交う周りを見渡し、感じてみた。
何とも言葉にはならない愛おしさ、貴さようなものが胸の奥からじわっとこみ上がる。
もうすぐ梅雨があける。

"beauty"

美しさというのは本当に日常のあちこちに散らばっている。
どこをどう感じるか、どこに美しさを見いだすのかという感性こそがいわゆる芸術と呼ばれるものなのだと思う。
だから、芸術は高尚なものでもなんでもない。
目を凝らして、耳を澄まして、自分を取り囲む毎日を感じて生きたい。

"reborn everyday"

カルフォルニアのシャスタ山に滞在中、足をのばしてオレゴン州のアッシュランドという街へ訪れた。
カルフォルニアの北に位置するレッドウッド国立公園からの帰り道でその街に着いたのは夕方。といっても
まだ街は明るくて、お目当てのfood co-opで新鮮でめずらしい食材や、ドンクァイやエキナセアのティンクチャーなど
買い込んだあと、仲間と街をぶらぶらした。こうやって外国にくると目にうつる全てが新しく、
そして同時に何故かアメリカは私にとってとても懐かしい場所でもあると感じながら。
Icecream shopに入って、子どものようにアイスを食べながらAshlandの風景をゆっくりと味わっていた。
通りの向こうでストリートミュージシャンが音楽を演奏しはじめた。
一緒にいた友人たちもどんどんその音楽の流れるほうに足早に向かっていく。
そこに向かう途中通りを歩いていたある女の子に自転車にのって通りすぎようとした男性が声をかけた。
”Hey ○○!(その子の名前)Happy Birthday for Yesterday! Sorry I am late..”
『昨日お誕生日だったね!おめでとう!ごめん遅れて!』
女の子>”Oh no no, It’s okay beause I am reborn everday! so,Today is also my birthday! Thanks! ”
『いいの。だって、私毎日生まれかわってるから今日もまたお誕生日!ありがとう!』
私は彼らの街角のささやかでHappyな会話をとても気にいった。
街全体が日が暮れて群青色に変わり始めていた。
この夏、忘れられない風景の1つ。

"Scene#2"

Heathrow Airportから市内に向かうpiccadilly lineの車両の中。
私の隣に座っていた女の子が鼻をすすっている。
横目にその娘を見ると声をこらえて泣いていた。
そして、涙の量が追いつかなくなったのかメガネをとって手の平で顔を拭い始めた。
その娘が気になりながらも、
私はまっすぐ車窓を眺めているふりをした。
自分にもあった。こんな風に人前で泣いたことが。
この世が終わるほどの悲しい出来事がおこっても、
自分以外の見渡す世界は変わることなく、
いつも通りに全てが動いている。
何事もなく朝がやってきて、そして日が暮れた。
Acton Townの駅に到着すると、彼女はすくっと立ち上がり、
そして降りていった。
私は彼女の後ろ姿が消えてしまうのを見届けて、
その先のEarls Courtの駅で地下鉄を乗り換えた。

"Homeward bound"

誰もが、きっとそれぞれ特別な関係を結ぶ場所があるのだろう。
高校を卒業し、はじめて故郷を離れた大学生の自分は、
広島より東にあるその場所で、17まで慣れてきた体感時計より早く日の暮れを感じた。
そして、横浜よりもう少しだけ遅い広島の日暮れを想像しながらキャンパスを歩いていた。
あれから何年の月日が経ったのか。
東京と横浜と私。特別な関係で結ばれていることに変わりない。
だけども、ここにはもう家がない。
夕暮れの東京の街を感じはじめると、
駆け足で東京駅に向かってしまう自分がいることに気がついた。

"chicago trees"

一年前のこの頃、Chicagoへ旅をした。
空港からシカゴのダウンタウンまで電車で向かう途中の車窓を眺めていると、
途中ところどころこんもりとした森がありクリークが流れている。
車窓から見える木々がなんというか、嬉々として枝を伸ばし葉をつけているように見えた。
そこに生えていることが嬉しくてたまらないという風なのだ。
今年のはじめに友人が2006年に旅をしてきたアメリカの木の写真を私に見せてくれた。
それはJoshua treeの写真で、友人はJoshua treeの名前の由来を私に話してくれた。
旧約聖書の中にでてくるエピソードのモーゼの死後、ユダヤの民をpromised land(約束の地)に導いたヨシュアが
その地にたどり着いた時に、手を広げて祈った姿にその木が似ていることに由来するのだと。
話を聞いて私もJoshua treeの生えているそのnational parkに行ってみたいと思った。
木々があんなにまるで人間のような嬉しそうな表情をしていたように見えたのは、今のところchicago treesの他にない。

I love these trees by the railway. I saw many place like this everywhere in Chicago suburb.
They all look living in natural situation…

"a walk on the wildside"

どこにもカテゴライズされないことに居心地の良さを感じる自分がいて、
「右向け右」と言われて右を向くところを左に向いてしまうタチの悪さが自分にはある。
先日、知人の音楽会に付き添う事になって珍しく母親と晩に2人で出掛ける事があった。
その帰り道、タクシーを拾って帰るという選択肢をやめ、夜道を散歩して帰ろうということになった。
寒くもなく暑くもないほどよい季節の晩の2人散歩が己のROOTSの1片を見せつけられる機会となろうとは。。
私の前に歩く母は「道」という「道」を歩こうとしない。
大通りを斜めから、真横から、そこをこうくるかというように大胆な道筋をつくっていく。
私にこのDNAの全ては受け継がれていないと思った。が、確実にこの1片は我のどこかにある。
満月の晩の散歩道、2つの影法師が重なり合って不思議なシルエットをつくっていった。

"note"

Sometimes, we depend on another people as a mirror to define us and tell us who we are.
But, each reflection makes me like myself a little more...

"I've Known Rivers"

私の生まれ育った街 広島には市内に川が6本も流れる。
車を運転するときも、自転車に乗るときも、散歩するときも
川の流れる風景は私の目の中に自然と映ってくる。
そのせいか潜在的に自分の中に川の風景というものが色濃く焼き付いている。

大学時代の4年間は横浜と東京で過ごした。
横浜にも東京にも私の見てきた川の風景は無かった様に思う。
多摩川も荒川も自分の中では私の見てきた川より広すぎた。
通学途中の電車の中から眺める目黒川の風景は
私が親しんできたそれとは違っていたけれど心象風景の1つとして残っている。
あの細くてたよりない川の窓越しの風景にも春夏秋冬があった。
冬枯れから桜のころまで。時々頭によぎる。

昨日、自転車で橋の上を渡った。
川はいつもの色より濁っていて海水が混ざった潮の香りが漂っていた。台風のせいだ。
秋から冬に向かう。今年もまた1年が終わろうとしている。

"outage"

インターネットの恩恵に被る毎日。
お陰で色んなことが随分簡単になってきているし、色んなことが出来て便利になった。
ハイテクノロジーによって大きく動かされる私の日常。
一方、このinstantでvirtualな部分に堅いアタマの私は最近どうもついていけてない。
簡単にどんどん繋がっていける。そしていとも簡単に切れてもいける。
複雑な気分になってきたので南の島の音楽を聞いた。
感覚を解きほぐし、nakedな自分を確認する

"speed of life"

車を運転するのも自転車にのるのも好きで、時間のある時には歩きたいと思う。
車の速度と自転車の速度と歩く速度。
同じ道を通るけれどその速度で目に留る景色はそれぞれ違う。
ある通りの通りぞいのベンチに時々座っているおじさんがいる。
いつも同じ格好をしていて、とても日に焼けている。
持ち物はかばん一つの様に見える。
夏の終わりの夕暮れ時にいつものようにその通りを私は自転車で通り過ぎようとした。
おじさんはベンチに座っていた。通りの先には山と空が見える。
蝉の鳴く夏の日の終わりをずっと、その目線の先にある
山と空をすがすがしい表情で眺めているようだった。
一種のカタルシスを感じさせるような、そんな表情をしていた。
執着するものは何もなく、全てを明け渡してきたといった風な。
ここの場所を通ると、いつもあのベンチに目がゆく。
そして、あのおじさんのあの表情を思い出してしまう。
車で通る時にはたぶん私は忘れている。違う速度で違う風景を拾っている。

"無印不良人"

無印不良人と私が勝手に名付けた人々がいる。どんな人をそう名付けてみたかというと、
以前に書いた映画パリテキサスの主人公トラヴィスなんかそんな感じだと思う。印を持たない不良の人。
ここの不良人を意味するのはどこかいびつで武骨、少々madで、生きる事に一生懸命な人。
印は社会と関わっている以上何らかのかたちでついてくる。だから印のない人は放浪人でもない限りあんまりいない。
すると、、印を必要以上に誇示しない人?もっと適確な言葉があるような気もする。
どうだろう?分からないけど、気づいたらここの周りにも現実社会での無印不良人がちらほらいた。

"smell"

五感の中でも嗅覚だけが直接本能的な情動に働きかける大脳辺縁系にストレートに信号が送られるのだそうだ。
もともと香りには敏感な方だと思う。雨上がりの道路の匂いとか、(浄化された感じ)
ケーキが焼ける時のバターとフルーツの香りはあたたかいやわらかい気分になれる。香りで記憶が蘇ったりもする。
去年のエレクトラグライドというテクノイヴェント。その時の会場の屋台の香りはどこかでかいだ匂いだった。
ずっとどこの記憶だったのか思いだそうとした。しかしその記憶を思い出せないまま疲れてその場で眠ってしまった

"the waste is..."

友人が"the wastebooks"というdrawingの本を作っている。
本の中にはさまざまな人の線がさまざまにちりばめられている。
私も時々ノートや紙屑の切れ端に落書きを書いてみたりすることがある。
ただの落書きを楽しみ、時にただのそれを心に留めてくれる人がいる。
その友人は私の落書きを気にいってくれthe" wastebooks"へドローイングの投稿を誘ってくれた。
ある人にとってそれがwaste(やくにたたないもの、クズ)であって、またある人に
とってはそのwasteが心にひっかかるもの、大事なものになる。
そんな発想がたのしくて、人はいろいろな方法で表現を試みようとするのだと思う。

My friend has issued a publication called "the wastebooks" which gathers various drawings by a range of different people.
I sometimes find myself scrawling on the edge of a notebook, paperscrap or something similar.
It is simply because I enjoy doodling,when then someone might take actual notice of it.
This friend has invited me to contribute my drawing.
Something someone has produced waste, or they might be something that strikes a particular chord in someone's heart.
Such ideas are so enjoyable to me, as I think people do strive to express themselves in diverse ways.

"I Don't Want To Talk About It"

Everything But The Girl の"I don't want to talk about it"という曲を最近よく聴く。
ずっと前にVancouverのMusic storeで買ったdiscだったようで裏面に赤いA&B SOUNDというシールがのこっている。
原曲は Crazy Horse の Danny Whitten なのだということを以前に作家の永井宏さんに教えてもらった。
EBTGの方しか知らなくて聴いていた。歌詞のそのままの感情が響いてくるようなそんな歌声で
Tracey Thorn が歌うから車の中では聴くたびごと同乗の人がいればその人も自分もついつい一緒に口ずさんでいる。

"PARIS TEXAS"

何度も見返したくなる映画がいくつかあって、そのなかの1つめはPARIS TEXASという映画。
印象的なのはトラヴィスという記憶をなくした男が昔の8mmの映像を息子のハンターや
弟夫婦と眺めているシーンとトラヴィスが飛行機に乗るのはイヤだといって弟にダダをこねるシーン。
もっともナスターシャキンスキーがピンクのモヘアのセーターを着てマジックミラーごしにトラヴィスと
会話するシーンも忘れない。薄闇の中でセーターのピンクとのコントラストが美しい。
70年代から80年初期にかけてのカルチャーを当時幼かった私は深く知らない。
しかしどういう訳かあの当時の色鮮やかな、そして同時に懐古的な
ボヤっと、もやがかってもいる、あの独特の世界観に時々懐かしさに近い親しみのような感覚を覚える。

"WHAT COMES AROUND GOES AROUND"

スタイルという事について考えてみる。身につけるもののスタイル。
私は部屋の床にちらかっているような洋服を無造作にひっかけてでてきたというスタイルが一番自分にしっくりくる。
ずっと変わらず好きで何年も着ているアイテムがいくつかあるがそれらは、まるで今のトレンドとは遠い気がした。
"WHAT COMES AROUND GOES AROUND"というNYの古着屋さん。この間旅行した時に
はじめて行ってみた。普通の古着屋とはどこか一線を画するセンスを感じるCOOLなお店だった。
お店に置いているのは古着のリーバイスやラルフローレンのマドラスチェックのシャツやアイゾットのポロ etc...
定番で普通にあるものだけどそれを絶妙なサイズで色合わせ等キレイにさりげなくコーディネイトできたら、
普通のものでもなんだか素敵にみえたりする。そんな風にお洒落を楽しんで自分の個性を表現できたらいいなと思う。

"cavatina"

少し前にラジオで流れていた映画ディアハンターのサウンドトラック"cavatina"という曲。
映画はみたことがなかったのにもかかわらず、耳に残るメロディだった。
少しもの悲しくもあり、あたたかくそして懐かしい
大学生の頃、映画の歴史を勉強していたからこの映画をいまから見るんだといっていた同級生がいたのを思い出した。

"Derek Jarman's Garden"

Derek Jarmanの庭の写真集をながめる。彼は映像作家であるとともに熱心な庭師でもあった。
ドーバー海峡に面し、原子力発電所のある海辺の町DungenessにはJarman自身の手による、海岸
で拾ってきた石ころと流木と骨やさびた鉄くずなどで作られた奇跡の庭がある。 彼は1994年にエイズ
で亡くなるが彼の庭の風景をみるとそこはJarmanにとってのheavenなのだということを感じずにはいられない。
痛々しさと静かな強さ、穏やかさに満ちている。

"Scene#1"

4年前 Los Angelsに旅した時のこと。サンタモニカからベニスビーチまでの海沿いをてくてく散歩途中、
アクセサリーのパーツのお店があり立ち寄ってみた。店内には地元の女の子たちがキレイな色の石や金属のパーツなど物色している。
そのうちの1人が唄を歌っていた。多分JAZZのスタンダードなナンバーだったと思う。実にのびのびと歌っていて、
私は傍でずっと聴いていたいと思った。しかし誰もがお店のBGMとして聞き流している。San Franciscoへ旅した時もそうだった。
ケーブルカーの終点でウエストコーストジャズを弾き語っている男の人がいて、サビの部分になるとケーブルカー待ちの人々が
大人も子供も一緒になって嬉しそうに歌っている。外国に行くと日常の1コマとしてこういう風景に普通に出会う。

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